おじぞうさまについて  
     
 
 地蔵菩薩は、如来になれる仏として、釈迦如来入滅後、次の仏たる弥勒菩薩が登場するまでの五十六億七千万年の間、自らこの五濁の世にとどまり菩薩のままで、六道の衆生を救済し、導いている仏である。
 六道とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つの世界のことで、この世界は輪廻の世界である。輪廻とは生まれ変わりのある、煩悩の世界で、生前の行いにより生まれ変わる道が決まる。地蔵菩薩はこの六道にそれぞれ違った姿であらわれ、功徳を施し、罪を救ってくれるという。その為、六体の地蔵(六地蔵)が建てられるようになった。これらの六地蔵にそれぞれ銭一文を供養するために六文銭という発想が起こり、三途の河の渡し賃ともなった。

 賽の河原の地蔵和讃に、幼くしてこの世を去った子供が、賽の河原で父母を思いながら積んだ石を、地獄の鬼が次々に壊してしまう。これは、子供が、親より先に死んでしまい、親を悲しませた罪は重いとして、鬼が容赦しないということらしい。そこへ、お地蔵さまが来て、子供達を衣の裾の中へ入れ、鬼から守ってくれるという。
 その「賽の河原地蔵和讃」を記す。(「地蔵和讃」には何種類かあるようだが、ここでは代表的なものを記す。)
 

 賽の河原地蔵和讃

 これはこの世のことならず 死出の山路の裾野なる
 さいの河原の物語 聞くにつけても哀れなり

 二つや三つや四つ五つ 十にも足らぬおさなごが
 父恋し母恋し 恋し恋しと泣く声は
 この世の声とは事変わり 悲しさ骨身を通すなり

 かのみどりごの所作として 河原の石をとり集め
 これにて回向の塔を組む

 一重組んでは父のため 二重組んでは母のため
 三重組んではふるさとの 兄弟我身と廻向して
 昼は独りで遊べども 日も入り相いのその頃は
 地獄の鬼が現れて

 やれ汝らは何をする 娑婆に残りし父母は
 追善供養の勤めなく

 ただ明け暮れの嘆きには 酷や可哀や不憫やと
 親の嘆きは汝らの 苦患を受くる種となる

 我を恨むる事なかれと くろがねの棒をのべ
 積みたる塔を押し崩す

 その時能化の地蔵尊 ゆるぎ出てさせたまいつつ

 汝ら命短かくて 冥土の旅に来るなり
 娑婆と冥土はほど遠し 我を冥土の父母と
 思うて明け暮れ頼めよと 幼き者を御衣の
 もすその内にかき入れて 哀れみたまうぞ有難き

 いまだ歩まぬみどりごを 錫杖の柄に取り付かせ
 忍辱慈悲の御肌へに いだきかかえなでさすり
 哀れみたまうぞ有難き

 南無延命地蔵大菩薩

 
 地蔵菩薩は、現世利益的な願いを受け入れる仏と、地獄に堕ちた者も救って下さるという未来救済、「地蔵和讃」にうたわれているように、両親に代わって手を差し延べ子供を守って下さる菩薩として信仰を得てきた。
 生前に一度でも地蔵菩薩に手を合わせたなら、地獄へ落ちても救って下さるという。「地獄に仏」とは、まさしく地蔵菩薩のことを言っているのであろう。
 最初に「地蔵菩薩は、如来になれる仏」と書いたが、菩薩というのは、上の位である如来になるため精進しているもののことである。しかし地蔵菩薩は、人々を救済することに明け暮れ、如来の地位は放棄しているようにも思える。そんな地蔵菩薩は、やはり、「お地蔵さま」と呼んだ方がしっくりくる。
 
『おくのほそ道 奥州古道 日光から今市への直道をゆく』(未稿)より

 

 
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